よく誰々の「選定書付き」なんてのがあるけど、結局それは一人のプレーヤーのいわば好みでしかない訳。実際Aさんが吹いて全く鳴らない楽器がBさんが吹くと強烈に鳴るって場合にホントよく遭遇する。実際問題自分が吹いて自分が決定すべきもの、というのが結論だけど、それでもまだ優柔不断な人は複数のプレーヤーに吹いてもらった方がいい。そこで共通するコメントはほぼ真実だと思って間違いないし、意見が分かれたときは自分がそのどちらかを決めればいい。

例えば今回のクーバツ。3本への評価は実に様々で個性的な表現だけど概ね「吹きやすさ」「プロジェクションのよさ」という点では共通しているが、「タイトな響き」「オープンなサウンド」っていう相反する表現もあった。結局これは各プレーヤーの息のスピードやセッティングの差や技量の差がその評価の違いなんだろけど、自分はどうかがキモで、あとはそれを吹いて自分が決めればいい訳。自分の相方は自分でしか決められない!



いきなり何故こんな話かというと、最近あまりに「自分」の無いプレーヤーが非常に多いということ。色んな情報や他のプレーヤーの意見に翻弄されて自分がどういう音を求めているのかすら解っていない。自分の彼女を他人の意見で決める様なトホホな奴は少なくとも私のまわりにはいない。

先日、某楽器店に行ったらストッパーのネジを延々と「選定中!」のニーチャンがいて、曰く「ココを替えたら音がよくなるって書いてあったんで・・」、で自分はどっちがいいのって尋ねたら「僕はもとのネジの方が吹きやすいけど、でも替えたほうがいいらしので・・・」!ご愁傷様!このニーチャン、結局数時間かけて一本のネジを選定して行ったそうな。

コレに遭遇してどこか、養鶏場の鶏に抱くような物悲しさを感じた。彼にとって養鶏場内のひとつの囲いの中だけが「世界」のすべてなのだ。おそらく何の為にパツラを吹くのかもわからなくなってしまってる訳で、まさに怖気を感じる。彼にとっての楽器は、音楽する為の「手段」ではなくて、もはやそれそのものが「目的」になってしまっているのだけど本人はそれに全く気付いていない。確かにその追求へのモティベーションの高さは認めるけど、自分の感覚をなんで信じられないんだろう。それも自分の楽器なのに。大体「重箱の隅」つついてる暇があったら曲のひとつでも覚えりゃいいじゃないか、と思うけどねえ?

とにかくネットにしろ書籍にしろ、膨大な量の情報が無責任に垂れ流されている現在、確固とした「自分」をもってないと自分を見失う事になる。他人が何と言おうが自分にとってイイものはイイのであって、そういうのが音楽する姿勢なんじゃないのかなあ。みんなが同じセッティングで同じ服着て同じ音出してるのは想像するだに恐ろしいぜ!